龍馬伝ヒロイン史実調べ~加尾ちゃん補足編~
3/7放映分を見たら、加尾の印象が変わったので、
ちょっと捕捉したくなりましたぞ!
昨日までは、てっきり龍馬のためにスパイ活動をしたのかなぁと思ってましたが、
兄と土佐勤王党の手伝いのようですね。
ここで、文献の内容がわかりました。ありがとうございます!
此人ハ(この人は)おさな(お佐那)というなり。本は乙女といいしなり。今年廿六歳になり候。
馬によくのり劔(剣)も余程(よほど)手づよく、長刀もでき、力ハ(力は)なみなみの男子よりつよく、(中略)かほかたち平井(加尾)より少しよし。
十三弦のことよくひき、十四歳の時皆傳(皆伝)いたし、申候(もうしそうろう)よし。
そしてゑ(絵)もかき申候。
心ばへ大丈夫ニて男子などおよばず。(後略)
加尾が佐那より劣るじゃなくて、「かほかたち平井より少しよし」って書いてたんですねぇ。
あと、龍馬の好きになる女性が乙女に似ている(シスコン)だというのもなるほどぉ~と思いました。
佐那の幼名が乙女というのもポイントですね。
しっかし、龍馬の自分の彼女・奥さんのことをイチイチこと細かにお姉さんに送るっつーのもなんだかな。
お母さん代わりでもあったみたいだから、マザコンでもありそぉ。
文久元年(1861)9月に龍馬が平井加尾に宛てた書簡。
その内容は、
「高マチ袴、ブッサキ羽織、宗十郎頭巾、細い大小一腰」の用意を促すもの。内容的に不明な点も多いのですが、
龍馬が恋心をいだいていた平井加尾に男装をさせ、
共に勤王運動に従事するつもりのものと言われています。
大河の方では、龍馬が血を流しながら、加尾が京に行くのをとめようとしてましたが、
実際は、京に行ってから、加尾に色々頼んでいるようなので、
まぁ、二人が恋仲で加尾が京に行くのをとめようとしたというのが脚色で、
実際は、龍馬→加尾への一方通行の恋情のようにも思えてきました。
だから色々なところで、初恋の人と表現されてるのかね。
この間 兄・収二郎らの「勤王党」の手助けをしていたとも言われています
しかし 収二郎は文久3年(1863) 過激な活動で藩主・容堂の怒りに触れ
28才で 切腹してしまいます
この時も 龍馬は乙女宛に 「平井の収二郎は 誠にむごい むごい 妹 おかおがなげき
いかばかりか」と 書き送っています
さて そんな加尾ちゃんは 維新も近い慶応2年(1866)
29才で やっと4才年下の「西山直次郎」と結婚
この時代では だいぶ遅い結婚ですが もらい手があったのは
「才色兼備」のおかげでしょうねえ
29で結婚というとこに妙に親近感が!その頃にしたらかなり晩婚だよねぇ。
ずっと京都で働いてたから、今にしたらやり手のキャリアがやっと幸せを掴んだという感じかね。
でも、実際は激動の時代の政治家・警視総監の妻なんて大変なんじゃなかったのかな。
龍馬が加尾に宛てた有名な手紙が残っている。
「先ず先ず御無事と存じ上げ候。天下の時勢切迫致し候に付、
一、高マチ袴
一、ブツサキ羽織
一、宗十郎頭巾
外に細き大小一腰各々一ツ、御用意あり度存上候。」
【文久元年九月十三日付平井加尾宛書簡】
ラブレターというには程遠い内容だが、山内容堂の妹友姫が三条実美の兄公睦に嫁したときに御付役として上洛し、三条家に仕えていた加尾に宛てた手紙である。物騒な京の町で加尾の身を案じた愛情のこもった手紙だといわれている。
この手紙が自分のために男装をさせて隠密をさせようとしたものだという説と、
加尾の身を案じて送ったものという2つの説があるようです。
しかし、この後色々頼み過ぎて、お兄さんに龍馬のいうことは聞くなと言われてるくらいだから、
何かはあったんでしょうねぇ。
西山家には坂本龍馬の筆のかたわらに女性の筆跡で縫い付けられた「あらし山花にこころのとまるとも、馴しミ国の春な、わすれそ」という歌が残されており、また、坂本龍馬と再会できなかった若き日のことを「女子一生の痛恨」とも記し、加尾は坂本龍馬と結婚したかったとも伺える。
うーん。やっぱり加尾ちゃんは龍馬と結婚したかったのかな。
まぁ色々妄想するのもまた楽し。
ここまで調べてたら、だんなに中途半端な調査で時間を使って( ´Α`)ウゼーとけなされた。くそー。
ちゃんと調べると時間がかかるんだよぉ ヽ(`Д´)ノ
と思いつつ、ちゃんとした情報を入手するのが難しく時間は結構かかってるかなとは思った。
それにしても、ここで参考にさせてもらった方たちは、ちゃんと文献から持ってきててすごいなと思う。
調べてる最中に出てきて書き留めておいたのだが、下の本でも読めば、もっと詳しくわかるかしらん。
龍馬と八人の女性
龍馬と八人の女性 (ちくま文庫)
ディスカッション
コメント一覧
まだ、コメントがありません